昭和48年12月16日 朝の御理解
                             中村良一
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」



分かるという事は、了解することと。了解とかいてあるですね。分かると言うこと。知っておると言うのではなくて、それが、いうならば、血に肉になっておるということ。そこで、私共が、あれもおかげであった、これもおかげであったと、了解が出来る。そこには、お礼を申し上げること以外にはないのであり、お詫びを申し上げること以外にはないと言う信心がいただけると思う。だからその、あれもおかげ、これもおかげであるという事が、これはもう、限りがないことです、ね。知ったおかげより、知らぬおかげが多い。見えるおかげより、見えぬおかげが多いと言うのですから。ほらもう、限りがない。ね。そのおかげ、それを、やはり、信心が深くなった、広くなったと言うのは、その見えないところが、ね。知らなかった事が、段々、広く、深く分かっていくことだという事になるのです。だから、それが、分かっていくことのために、なら、どういう信心をさせて頂いたら良いかという事です。私共が、信心をさせて貰うて、本当に、あれもおかげ、これもおかげ、一切が神愛だと、本当に、そう分からせていただける時に、私は、お礼の生活というか、歓喜の生活という事、喜びの生活という、本当の意味においての信心生活が出来ると思うんです。それが分からないところに、不平があったり、不足があったり、ね。または、情けないと思うたりしておるのです。または、腹が立ったりしておるのです。そういうものが、なくなる世界ですから、あれもおかげ、これもおかげという事は。実に、だから、有難いことになるのです。ね。
先日、あの、日田の共励会の時に、秋永先生がお話ししておられましたが、こう、いろいろお話しをいただいておる事が、そん時には分からなくってもです。やっぱり、二年し、三年しておるうちに、ふっとその、はぁ、親先生が、あんなに言うておられたのは、このことだなと分かる。本当に了解が出来るのは、すぐ出来るもんじゃないといったような意味の話をしておられた。
何時か、伊万里に、何かご招待頂いた時に、あの、伊万里の陶器の窯元で、あの、皿に私が、色々なものを書かせていただき、それを、皆さんに、出来上がったのを、武内先生、持ってきて頂いておりましたから、皆さんに、それを、そん時、行っておった人達に全部配った。たまたま、秋永先生の所には、こんな、額皿になっている。私は、高橋正雄先生のお言葉である、有名なお言葉です。見ること、見ること、自分を見ることという、書いておった。ね。人を見るのじゃない、人の足元を見るのじゃない。もう、自分の足元、自分の心のなかだけを見ておれば良いのだと言う事。なんか、問題があったら、ね。その問題を、先ず置いて、先ず自分の心を見極めたら良いのだと。
皆さん、今日はね、あれもおかげ、これもおかげと、分かるようになるための前提、その修行という事なんです。ね。先日も、ある、まぁ、いうなら、難儀な問題の時に、もう、すぐさま、目を瞑って、金光様、そして、自分の部屋の隅においてある、その、見るころ見ること、自分を見ること。その事をです、いわゆる、自分自身を見極めて、見極めることのために、御神前に額ずかせていただいた。そしたら、なるほど、あれでもなからなければ、彼でもない。ね。結局は、その元は、私にあったんだと言う、ま、事が。してみると、そのこともまた、おかげであったと気付いたというのです。ね。ですから、私共が、やはり、稽古です、ね。あれもおかげであった、これもおかげであった。理屈を聞かせていただきますとです。ふん、なるほど、そんなもんかなぁと思うけれども、了解は出来ない。了解と、こう言うたら、もう、承知しましたと、次の行動に移ることでしょうが。ね。了解、というでしょう、ね。よくあの、こう、色んな電話なんかの場合ですね。色んな、こう、通信を致します。相手の言うてることが分かった。はい、了解、そうしますと言うことなんです。分かる、ね。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになるという事を、了解としておられる、書いておられる。
いうなら、秋永先生は、三年後に了解された訳なんです。ね。その御教えを頂いて、見ること見ること、自分を見ることと。ですから、これからとても、やはり、その生き方で行ったら良い訳なんだ。だから、それが稽古だ。信心の稽古というものは。色んな痛い思いをする、ね。情けない思いをする。ね。くらい、様々な、例えば、ね。おかげである事は、理屈の上で分かっておるけれどもです。おかげと、それを頂いていないと言うところに、いわゆる、本当の信心じゃないなぁ、信者じゃないなぁという事を、先ず、自分がわからにゃいけん。有難いと、言うなら答えが出てくる。おかげという事が分からせて貰う。そういう答えが出るところまで、信心の稽古はしていかなければならん。それには、やはり、教えを頂いて、同時に、私共の心の、自分自身を見極めると言うことである。ね。その事がです。私は、あれもおかげ、これもおかげであるという事を、一つ一つ、自分のものにしていく稽古だと。いわゆる、あれもおかげ、これもおかげと分かる為の前提だと思うのです。だからその、前提の所を、おろそかにして、分かっておるのは、それは、本当の了解しておるのじゃないのです。その前提の所を一つ、自分のものにして、ね。なるほど、それが、おかげであったと気付かせて頂く、勿論、心からお礼が申し上げれる心なんですね。分かるという事は。
目に見えるおかげより、または、知ったおかげより、とこう仰る。知らぬ、気が付いてなかったところ、ね。目に見えていなかったところ。それが、自分の心に、はっきりと分かってくる。おかげの世界が広くなってくるのです。そこにです、勿論、いうならば、まぁいうなら、ご利益の世界というですか、ね。お互いが、願ってやまないところのおかげの世界が、また、それだけ、広がっていくと言うことなのですから、どうでもその、あれもおかげ、これもおかげであると分かる、その前提としてです。やはり、人ではない、自分自身を見極めること、自分を分かることだと思うのですね。どうぞ。